February 2nd, 2009

故 伊住政和氏の七回忌

column

法要で挨拶される裏千家御宗家
関根秀治氏(裏千家淡交会事務総長)奉仕の茶席で用いられた筒茶碗初代大樋長左衛門作玄々斎箱 銘「天雪」
最後に法要のあった大徳寺聚光院に3人で戻り記念撮影
右に大倉治彦氏、左に辰巳琢郎氏、我々は伊住政和氏のお陰でつながっている。

 

伊住政和氏(裏千家鵬雲斎大宗匠次男/坐忘斎御家元弟)の七回忌法要が京都大徳寺で執り行われた。
2003年2月2日、友人である辰巳琢郎氏が金沢を訪れていた未明に携帯がなった「伊住政和氏がたった今、亡くなられました」
そのような内容だった。辰巳氏と二人、泣きながら献杯したあの瞬間は忘れない。

 

彼が亡くなる直前、暮れも押し迫った12月末、許されて入院先を訪ねた。その数ヶ月前には京都での私の個展に立ち寄ってくれたのだが、
やせ細った弱い彼の姿が病室にあった。鵬雲斎御家元から坐忘斎御家元へという歴史の橋渡しを果たせた安心感からか、彼のその時、
仏のようにも見えた。
「俺、もうあかんわ、TOSHI」政和さん「頑張って新年の燦々会出ようよ!」そんな会話しかできなかった。
別れる際、握手をしようとした。彼の手は直ぐにはでてこない、そこまで体力がなかったのか?
互いが手に触れた時、彼からの「別れのメッセージ」が伝わった。
そしてその後、病室の外で大泣きした。

 

あれから7年が過ぎた、、、、、、、、、、
「出会いと別れ」は繰り返されるのだが、彼からの影響は今もって、私には大きなものがある。

 

法要は裏千家宗家をはじめとして、老分、燦々会、友人、業躰先生など彼に深く関わった人たち180名が参列し、茶会も開かれた。
関根秀治氏(裏千家淡交会事務総長)が席主であり、床には「明歴々露堂々」鵬雲斎大宗匠筆の軸がかかり、
伊住宗匠が生前好まれた道具を中心にして忍びの茶となった。大倉治彦氏(燦々会会長/月桂冠社長)辰巳琢郎氏、
そして私と並んだのだが、申し訳ない事に裏千家御親族が後に入られたので、私達が上席となってしまった。

 

関根氏は、「伊住宗匠の初めて削られた茶杓(銘 本気)」「茶美会(今のブームの先取り)」様々に検証されたことを説明されて、
伊住宗匠が古典を現代化する努力を懸命にされていたことが思い出された。
次客の辰巳氏に使われた茶碗は「大樋初代作 筒飴茶碗 玄々斎箱 銘 天雪」また、私が初めて作った「大樋黒茶碗」なども用いられていて、
関根氏が、伊住宗匠と私が交流させて頂いた証を示して下さったことは、深く感謝を申し上げたい。

 

法要、墓参り、茶会、最後にまた寺に戻り、大倉、辰巳、両氏とともに記念写真を撮った。
晴天の京都、伊住氏の縁のお陰で私達は繋がっている。

 

「ありがとう」政和さん!そして「茶是一生友」憺泉斎月澗宗晃宗匠

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